「結婚はしなくてもいいけれど、子供が欲しい」
なんとなく、こうした言葉を口にする女性を見かけるようになりました。もちろん、もとより結婚願望が強い人もいれば、将来的に子供が必ず欲しい!と昔からの夢がある方もいるでしょう。私自身も、「もし、自分の子供ができたら…」とよく想像をします。そのいっぽうで不思議なのは、なぜ子供を欲しいと願うのかということ。今回は、女性の子供が欲しいと思う気持ちについて少し考えて見ました。
彼氏より、子供が欲しい気持ちとは何か
これは私個人の考えですが、私はもともと結婚願望もそこまで強くなく、機会があればできたら良い程度の考えでした。もちろん、子供に対する願望は結婚願望よりも正直薄く「子供が絶対に欲しい!」と切望したことがあまり無いのです。
「好きな人との間に子供が欲しい」という気持ちは理解できるのですが、「別に彼氏や夫はいらないけれど、子供が欲しい」と思う気持ちがよく分かっておらず、思い切って子供が欲しいことを公言している友人・知人にその気持ちをぶつけてみることにしました。
すると人によって様々な意見が返ってきました。一番多かった意見は「自然とそういう気持ちになった。これが本能なのかもしれない。」という意見。本能かぁ…いつかそういう気持ちが生まれるかもと自分に期待していたが、出産適齢期ど真ん中の私ですが、まだ本能的な気持ちが湧いてこない。
この他に、なるほど…と思った意見がこちら。
「 恋人や夫は他人。自分の血を分かち合えた我が子に代えられる存在はない」
「私は、遺伝子的に子供を産みにくい体質。だからこそ子供を持つ母親を羨ましく思う」
「幸せな家族の象徴だし、自分も愛されて育ったから、同じように育ててみたい」
この意見の中で、すごく切ない気持ちになったのはやはり、子供を産みにくい体質だから憧れるという言葉。産む理由・産まない理由について考えること自体、自分にはその選択肢があるからなのだと痛感しました。
産みたい気持ちに、エゴはない?
その一方で、産みたい理由に「何となく」や「幸せそうだから」という曖昧な気持ちを持って良いものなのかな?と少し疑問に思うようになりました。本当に子供が欲しいと望むその裏側に「子供がいれば私は幸せでいられるに違いない」という思い込みが見え隠れているような気がしたのです。
もちろん、子供が欲しいと願う全ての人がそうしたエゴを持っているわけではありません。ただ、多かれ少なかれ、子供が欲しいと思う人の心の根底には、子供という唯一無二の存在によって無償の愛を与え、与えられる関係を築きたいという気持ちがあるのでしょう。
夫や恋人に対する愛情と、自分の子供に対する愛情が微妙に違うというのは、子供を持たない私でも何となく想像がつきます。言葉にするのは難しいですが、言い換えるならばやはり無償の愛。夫にはされたら許せないことや愛せない部分があっても、血を分けた子供なら、叱ることはあっても許せないことなんてないのでしょう。そうした無償の愛を感じることで、人として強くなりたいと願うから、無意識に子供を欲しいと思うようになるのでしょうか。
自分にとっての“愛”について考えてみよう
こういう観点で言うならば私は人よりも“たった一人の特別な関係”や“無償の愛を与えあえる関係”に強いこだわりがないので、子供が欲しいと切望するほどの気持ちを持ったことがないのも何となく合点がいきます。
血の繋がりがあるにしろ、ないにしろ、人は一生、孤独な存在で死ぬときも一人。なので人生を共にするパートナーがいてもその人に永遠の繋がりや永遠の愛を期待しているわけではないのです。こうお伝えするととても寂しい人間ですが、世の中に究極の愛や絶対と言える関係はないのだということを考えています。だからといって愛情が薄いわけでもなく、その時々で、目の前の人を愛しています。子供を産みたいというのは極論、愛に対する考え方、ものの捉え方の違いが大きいのかと、今回様々な方の意見を聞いて少し腑に落ちました。子供が欲しいと思うから正常、正常じゃないとか、正しいか間違っているかを判断できるものではないのですね。
先の人生を見据えることも忘れずに
それと同時に、産む人生と産まない人生を見据えることも大切です。
私自身も絶対に産まないと決めているわけではありません。きっかけがあれば、いくつになっても産んでみたいと思いますし、ご縁がなければそれで良いと思っています。ただ、子供を産む人生・産まない人生、どちらに転んでも、それぞれの人生で最良の選択だったと言えるように、その時々で経済力と精神力を養っていければ良いなと考えています。
是も非もない問題だからこそ、その時々の自分の考えを振り返ることも大切。ぜひ、あなたにとっての子供を産むとは何か。自分自身にとって心地の良い愛とは何かを考えてみてくださいね。